がんばった!空閑緑

スポーツ麻雀(現:健康麻雀)の普及に尽力した、
空閑緑(本名・空閑知鵞治)の足跡が追えました。

わっ、嬉しいです。
日本麻雀連盟の創立者にして、スポーツ麻雀普及活動の第一人者である、
この方の活動内容には、大変興味がございます。
東京麻雀会から、大日本麻雀連盟へと、
瞬く間に組織を大きくした、その手腕にも注目だぜ!
で、最終的に、その組織から脱退し、その組織に対抗するような新組織を作ったのよね?
一体どうして、そんなことになってしまったのかしら?興味は尽きないわ。

大正13年(1924年)

空閑氏は郷里の福岡県から単身上京、四谷仲町に移り住みます。
同氏の麻雀活動はここから始まります。

空閑氏は、それまで、山東鉄道(中国の鉄道会社)で秘書課長をなさっていました。
(英国にも、3年ほど滞在なさっておられたようです。)
大正12年(1923年)、日本に帰国したのは実に20数年ぶり。
そして日本ではまだ知られたばかりの麻雀を見て、

「麻雀の経験は私のほうが古い。何と言っても大陸仕込みなのだから。」
こんな風に考えたのではないでしょうか。

そして、自宅の2階に4卓ほどの麻雀卓を置き、
「東京麻雀会」と称して同好者を集めます。
まさに日本の雀荘のはしりというべきものを立ち上げたのです。
場所代は今あるようなゲーム代ではなく1日いくら、の席料でした。

周囲にいた人たちはかなり驚いたことでしょう。
「そんなものがあったらいいな」
くらいに考える人はいても、それを実行に移す人はいなかったのですから。

ぬおー、るなちゃんが所属してる「雀新会」と、全く同じだ!
人間ってのは、同じことを考えるんだなー。なんかスゲー。
ほんと、瓜二つね。
ここまで同じだと、なんだか運命を感じてしまうわ。

その後、空閑氏は四谷仲町から銀座尾張町に進出、
「東京麻雀会」を「東京麻雀倶楽部」と改称します。
このあと様々な紆余曲折を経て、
昭和4年(1929年)「東京麻雀倶楽部」は

「日本麻雀聯盟」

という名称のもとに大同団結がなされます。
空閑氏の並々ならぬ情熱、
そして行動力があったことはいうまでもありません。
え?あれ?
おいおい、その「紆余曲折」んとこが知りたいんだよ、あたしゃ。
たった5年で、何したら、こんな組織にまで膨れ上がるんだ。

熱意と情熱で、小さな団体を次々と傘下に入れていったのです。
ですが、こうしたやり方に異を唱えるものもおりまして・・・

「各地の麻雀倶楽部もアマチュア団体も一緒くたにして、
単に○○支部とか△△加盟団体としてその傘下に収めたにすぎない」
という見方があったことも事実です。

文献によれば、縦横に整備され、それなりの形をとってはいたようなのですが。
そうなのか。ま、そういうやり方なら、
あっという間に膨れ上がるのもうなずけるってもんだ。
それはそれで、難しかったことと思います。
自分達の団体を別団体に吸収合併させる…なかなかできることではありません。
自分達で苦労して作り上げた団体ならば、尚更です。

アイカさんの仰る通りでして、関東・関西のいくつかのグループには、
空閑氏のやり方に同調せず、参加を拒否した方たちもいたようですね。
ふーん。まあ、それだけの人間の中には、はねっかえりもいることでしょう。

情熱と行動力で、麻雀界の統一を図った、空閑緑。
『僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる』を、地でいったってことなのね。
大したものだわ。

日本麻雀聯盟となったその年の昭和4年(1929年)、
日本麻雀聯盟は、役員総会を開き、
空閑氏の「会長制」から「中央委員制」に切りかえます。

ここで初代総裁に選出されたのが、
文芸春秋社社長の菊池寛氏です。

とても有名な方が、総裁となったのですね。ネームバリューは申し分ございません。
団体が寄り集まって出来た組織であれば、みんないろいろ意見を言いたいでしょうから、
中央委員制になったのも、止むを得ないことなのでしょう。
止むを得ないのか?あたしには、嫌な予感しかしないぜ。
わがまま言う人間が出てくるのよ、こういう所には。
そして組織が振り回され、空中分解…。
これが人間共の行動規則よ。日本麻雀聯盟は大丈夫だったのかしら?

鋭いですね。妖精さんには、人間の行動パターンなどお見通しなのでしょうか。

日本麻雀聯盟設立から3年後の昭和7年(1932年)、
東京銀座の資生堂会議室で「全国評議員会議」が開催されます。
総裁も菊池寛氏から久米正雄氏にかわり、各役員も新たに選任されます。

明らかに組織が強化され、空閑氏の独断専行に代わり、合議制が採り入れられていきます。

空閑氏が設立した麻雀段位「5段制」も、菊池総裁のもとでは「8段制」になっていましたが、
この「段位制」を巡り、歯車が狂い出します。

段位制ね。
賭けない麻雀を推進するからには、麻雀に対するモチベーション作りも必要だよな。
その段位制を巡り、歯車が…?
何故なのでしょう。全く予測がつきません。

空閑氏が関西に出向いた際、初めて段位制に接したのですが、
彼は東京に戻った際に、
関西側への連絡も承諾もなしに、同じものを実行に移してしまいます。
しかも「新段位は権威づけを損なわないためにも乱発しない」
という菊池体制の考えを無視して段位を発行、自身の収入源にもしていました。

いいこと広めて何が悪いんだ。
…って、ええ?段位の発行で金とったの?しかもそれを、自分の懐へ?
やべー、絶対怒られる。
組織でやっていることを、自分の利益の為だけに、真似してしまったのね。
知的財産の業務上横領といった所かしら?

日本麻雀聯盟は、こうした勝手な段位発行に対抗する手段として、
組織内に、「段位選考委員会」などを作り、
勝手な段位発行は認めないシステムにしました。

ここで、空閑氏は、聯盟に見切りをつけ、自ら組織を離れていきます。
が、彼もこのままでは終わりません。

その後間もなく銀座の越後屋ビルに
「東京麻雀倶楽部」を新たに立ち上げます。
しかも「関東麻雀段位獲得選手大会」
と銘打っての大会まで打ち出します。

当然、聯盟としては見すごすわけにはいかず、
正式な使者を立て、話し合いを求めますが、

「段位に関する限り私一身の所存で行ひ、
之も亦自己の生活権を擁護するためのみ」
と突っぱね、受け入れようとはしませんでした。

聯盟は役員会を開き、数々の議論の末、
「空閑緑氏の除名やむなし」との決定を下します…。

「段位に関する限り私一身の所存で行ひ、
之も亦自己の生活権を擁護するためのみ」・・・?
だめだ分からん。アイカ、教えてくれ、この言い訳の内容。
『暮らしていく為、私オリジナルの段位を(有料で)発行している。(ほっといてくれ。)』
・・・このような意味です。
自分の作った組織に対抗する組織を作って、そして、
元の組織からは、完全に排除されてしまった、ってことなの…?
誰がわがままを言い出すのかと思ったら、創始者本人とは。ちょっと予想外ね。
・・・日本麻雀聯盟は、創始者たる空閑緑に、活動の報酬を払っていなかったのかしら。
そうだとしたら、酌量の余地はあるわ。
他の会員から不満が出ていないところを見ると、
他の会員は、本職を持っての片手間で、空閑緑は、これを本業としたのでしょうからね。
ほーらな。会長制から中央委員制に変えたから、こんなことになったんだ。
「この会は俺の物じゃー!」って感じで、空閑緑がワンマン経営してた方が、よっぽど良かったんだよ。
それがダメなら、ちっちゃいとこを次々に吸収なんてやり方、しなけりゃ良かったんだ。
麻雀の統一には、人が集まる必要があり、人が集まると、様々な意見が出てまとまらない…。
やはり、絶対的な力を持った人が、人々を牽引しないと、人間はまとまることができないのでしょうか。
まあ、人間にしてはよくやった方よ。空閑緑。
結局最後は自らの欲望に押し潰されたけどね。
ほめてあげるわ。

こうして足跡を追ってみましたが…空閑緑は、どう動くべきだったのでしょう。
ま、組織を大きくするだけじゃダメだってことは分かったからな。
ひとまず地道な活動を繰り返して、その中で、賛同者を見つけていく方法がいいんじゃないか。
えらく時間はかかるが、こんな風な意見の対立も起こりにくいだろ。
麻雀の普及活動に、王道や近道はないのですね。
少しずつでも、具体的な活動を繰り返すことが、大切なのだと思います。
どうやら、そのようね。
空閑緑の頑張りも、失敗も、全部参考にしましょう。
人間に成し得なかったこと…私達が、やってみせるわ。

お役に立てたようですね。光栄です。


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