日本での麻雀の歴史(終戦後)
続きキター!
さあさあ、戦争をはさんで、この国の麻雀は、どうなっていくんだ?
一度は権力により姿を消された「麻雀」ですが…。
現在も、賭け麻雀が横行している理由が、この辺りに隠れていそうです。
私もそう思うわね。何かあったのよ。

皆さんの推測の通りです。
前回の「日本での麻雀の歴史(黎明期)」で
『そして昭和15年頃にはあれほど林立していた雀荘は姿を消します…。』

と締めくくりましたが、実は、戦時中でも営業を続けた雀荘があります。
ほら、やっぱり。
賭け麻雀は、しぶとく残っていたのよ。
詳しく説明して?

了解しました。

前出「南々倶楽部」の平山三郎は、当時の荒木貞夫陸相に
「野球やテニスと同じ。国民にも若干の娯楽は必要です。」
と大臣室で直訴し、営業の了承を得ております。

その後、妻と子供たちを郷里へ疎開させ、
自身は単身東京に残り戦争中も営業を続けます。

終戦後も組合の会長としてGHQと交渉し営業存続を勝ちとるなど、
麻雀店の生みの親としてだけでなく、戦後の麻雀の隆盛にも尽力いたします。
こいつか…。こいつの頑張りのせいで、あたし達の世界は…。
はい…。
ですが、不健康な麻雀とは言え、国のリーダー格はおろか、戦後の最大権力「GHQ」とまで交渉し、
麻雀を存続させたという努力は、さすがだと思います。
この人間に足りなかったのは、「麻雀≠不健康」っていう式だけだったのね。
残念。本当に残念だわ。

人間の立場として、言葉もございませんが・・・これが事実です。
更に申し上げにくい歴史が続きます。

戦争中に急速に衰退していった麻雀は、
立直・ドラという新ルールとともに今度は急速に復活していきます。

昭和21年(1946年)2月には
東京・浅草で雀荘の営業が許可され、以後相次いで雀荘が開業いたします。
ええっ…。第二次世界大戦の玉音放送(ポツダム宣言受諾、終戦)は、
昭和20年(1945年)8月のことでしょう…?わずか半年で…?
あーあ、なんとなく予想はしてたけどさ。
平和になった途端にこれかよ。救えねえな、人間って…。
平山三郎が南々倶楽部を継続させようがさせまいが、こうなる運命にあったようね。
ため息しか出ないわよ。はあ・・・。

で、この頃から、「途中立直」や「ドラ」が普及し始めたのね?
私とシャインが生み出されたのが、丁度この頃だったわ。
このギャンブル的なルールから、楽しい部分だけを抽出しようと…。

昭和22年(1947年)
日本麻雀連盟は戦時中に解散していたにもかかわらず、
戦後、大衆的に立直が広まっている状況に危機感を覚え、
わざわざ立直を潰すために再結成されました。

(ラルフ注:立直を潰すため=麻雀の歴史と伝統を守るため。
日本麻雀連盟は設立当初より自分たちの麻雀を
「賭けない・健全なスポーツ的麻雀」という意味で
「スポーツ麻雀」と称していた。)

昭和23年(1948年)
日本麻雀連盟の重鎮、古谷徳太郎氏は
「麻雀タイムス」紙上で
「(立直をかけると)
自摸ってきた牌をいやおうなしに打ち出さなければならないことは、
麻雀における技の要素をあまりにも少なくし、麻雀を遊戯史上の
『めくり札』の段階にまで後退せしめるものだと判定したからである」
と立直に反対する理由を書いています。
日本麻雀連盟の再登場キター!
空閑緑の、麻雀を健康なものにしようとする意思は、「スポーツ麻雀」って言葉で
表現されてたんだな!
いいぞいいぞ、不健康麻雀なんざ、ぶちのめせー!
めくり札まで後退…?
異議アリだけど、今は黙っているわ。
これは大いに期待できます。
さあ、再結成された日本麻雀連盟の活動結果は、どうだったのでしょう?

このころ、同じく日本麻雀連盟の所属ながら立直推進派だった天野大三は、
「立直が導入されると麻雀が博打的になる」
という疑いから、警視庁の呼び出しを受けます。

この時、天野が断固として、
「立直を採用した方が戦術的に高度となり、むしろ麻雀は競技的になる。」
と主張していなければ、現在「立直」という役はなかったかもしれません。

こういった紆余曲折はあったものの
結局、戦前からの「二十二麻雀ルール」は主流とはならず、
立直・ドラを取り入れた新ルールが普及いたします。
はあ?何言ってんだ。
日本麻雀連盟って、立直を潰すために再結成されたんだろ?
古谷なんちゃらってお偉いさんも、めくり札云々つって、立直に反対したんだろ?
不健康麻雀をぶちのめそうとする団体が、なんで立直の正当性を主張しちまうんだよ!
私も同感よ。わけがわからないわ。
何故、立直擁護派が、日本麻雀連盟に所属しているのかしら。
天野さんの、独断で行ったことなのでしょうか?
それとも、大きくなった組織が、また分裂を起こしていたのでしょうか?
いずれにせよ、日本麻雀連盟は、不健康麻雀を抑止することはできなかったようですね。

戦後、早くから立直麻雀の将来性に目をつけていた前出の天野大三は、
昭和27年(1952年)12月、報知新聞の要請により同紙上に日本最初の立直麻雀ルール
「報知ルール」を発表いたしました。

この「報知ルール」は現在から見ればまだ戦前の二十二麻雀色の濃いものでしたが、
「宣言牌の横置き」「振り聴」「見逃し」
といった立直やその周辺ルールにつきましてははかなり整備されたものでした。
これ以後数回の改定を繰り返しながら現在に至っております。
(現在「新報知ルール」の名称で公表されております。)
・・・なあ、なんかあたし、腹が立ってきたんだけど。
なんでだろ・・・。
日本麻雀連盟は、不健康麻雀の抑止どころか、
『将来性に目をつけて』、不健康麻雀を推進してしまったのですね。
設立当初の目的をきれいさっぱり忘れた、素晴らしい斜め上っぷりに、失望の涙が止まりません・・・。
・・・ふっ。ここまで期待を裏切ってくれたなら、逆に清清しいわね。
天野大三。その名、よく覚えておくわ・・・。

昭和44年(1969年)から週刊大衆に阿佐田哲也の
『麻雀放浪記』が連載され大反響。人気を博します。

同じ頃、日本テレビ系人気番組
『11PM』(司会・大橋巨泉)
が麻雀を放映してファンを沸かせます。

昭和47年(1972年)には麻雀専門誌の
月刊「近代麻雀」が竹書房から創刊。

この頃から昭和60年(1985)頃までが第二次麻雀ブーム…
第二次の麻雀全盛時代といえるでしょう。

このブームは戦前のような爆発的なものではありませんでしたが、
その後も麻雀は愛好され、
現在ではゲーム・インターネット・漫画など多種多様なメディアの力によって、
さまざまな世代に麻雀は定着し現在も広く親しまれております。

終戦後の麻雀の歴史は以上です。
麻雀放浪記・・・。
余りにも人気だったので、映画にもなっていますね。
この映画が、麻雀をよく知らない人にも「麻雀=不健康」という先入観を植えつける、
格好の視聴覚資料となってしまいました。
あらら、どうにもならねーな、こりゃ。
ここまでくると、あれだな。
『第三次麻雀ブームが起きた時、不健康麻雀は健康麻雀へ』とかって歴史を作るしかないわ。
なるほど。その手もあるわね…。
そしたら、私達の手で、第三次麻雀ブームを起こせばいいのよ。

いつだって、歴史は、誰かの強い想いと、具体的な行動から、作られました。
皆さんの熱い想いは、きっと、人間世界にも伝わるのではないかと思いますよ!
・・・ですよね。
これからが大切です。これからが…。
ところでさ。
日本麻雀連盟は、見事に斜め上をやってくれたわけだけど、
設立者の空閑緑は、これ、黙って見てたのかい?

これまで教えてくれた歴史の中で、あたし達と同じマインドなのって、
空閑緑しかいないと思うんだよな。
この人物のこと、もうちょい知りたいよ。
了解致しました。
文献の検索を行います。・・・


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