日本での麻雀の歴史(黎明期)
日本での麻雀の歴史…。
私共の世界が汚され始めた時代の歴史でしょうか。
はい。麻雀がギャンブルとして普及する、少し前のお話です。
アイカさんの上級編「麻雀の歴史」と、いくらかかぶる部分がありますが・・・
今後の、役の生い立ちなどを知る上で、この歴史を学ぶことが、避けて通れません。
知識として、知って頂ければ幸いです。
アイカの気持ちはよく分かるわ。私だって同じよ。
人間風情が麻雀をギャンブルに使い始めた歴史・・・悲しい歴史など、知りたくないでしょう。
だけど、敵を知り、己を知れば、百戦危うからず。
人間が、どのようにして、麻雀を普及させて行ったかを知ることは、
人間を、どのように「麻雀=ギャンブル」から脱却させるかのヒントとなり得るわ。
・・・一理あります。
そうですね、知識として、人間の歴史を知ることは、決して無駄ではないでしょう。
まあ、もうちょい気楽に聞こうぜ。
どうやって、この国に、麻雀は広まって行ったんだろうな。
さあさあ、早く教えてくれよ。
了解致しました。

夏目漱石の「満韓ところどころ」という文章がございます。
これは夏目漱石が支那(現在の中国)を歴訪した際の紀行文として書かれたものです。

明治42年(1909年)11月19日の
「東京朝日新聞」に掲載された文章の一部、以下で紹介いたします。

たくさん並んでいる部屋の一つでは四人で博奕を打っていた。
博奕の道具は頗る雅なものであった。
厚みも大きさも将棋の飛車角くらいに当たる札を五六十枚程四人で分けて、
それを色々に並べ替えて勝負を決していた。
其の札は磨いた竹と薄い象牙とを背中合わせに接いだもので、
其の象牙の方には色々の模様が彫刻してあった。
此の模様の揃った札を何枚か並べて出すと勝ちになる様にも思われたが、
要するに、竹と象牙がぱちぱち触れて鳴る許りで、
何処が博奕なんだか、実は一向解らなかった。


はっきり「麻雀」と書いているわけではありませんが、
どうみても「麻雀の描写」ですね。
これが、「日本で麻雀を紹介した最初の文章」だと言われております。

これは、アイカさんも、紹介なさっていましたね。
・・・(おいアイカ、この文章、どういう意味なんだ。一行で頼む。)
(よく分からないものでギャンブルしていた、という意味です。)
(なるほどな。)

同じく明治42年(1909年)にはもうひとつ、麻雀に関する出来事がございます。
「麻雀牌の日本初上陸」です。
現在この牌は千葉県にある、「麻雀博物館」の日本コーナーに展示されております。

この日本上陸第1号の麻雀牌を持ち込んだのは
日本語・英語の教師として中国本土に赴任していた
名川彦作という方です。

名川は大陸で入手した麻雀牌を携えて帰国。
その後、樺太の「大泊中学」で同僚・生徒らに熱心に麻雀を教えました。
しかし、これは組織だったものではない個人の行動で
また場所も樺太ということもあり
これが麻雀ブームのきっかけ、とはなりませんでした。
楽しいゲームだから、みんなに教えてあげたかったのね。
私達の健康麻雀普及活動に通ずるものがあるわ。
名川彦作・・・覚えておくとしましょう。

大正時代にはいりますと、大陸などで麻雀を覚えた方々が
「日本での麻雀の普及」に動き出します。

・大正6年(1917年)
肖閑生
日本語による初の麻雀文献「麻雀詳解」刊行。

・大正7年〜大正10年(1918〜1921年)
井上紅梅(本名・井上進)
雑誌「支那風俗」刊行。紙面文中で麻雀のルールを詳しく紹介。

・大正7年(1918年)
麻生雀仙(本名・賀来敏夫)
東京赤坂で少数愛好家のサロンといったかたちで麻雀クラブを開設。
えっ、1917年・・・。
名川彦作先生が牌を持ち込んでから、8年も後のことなんですか。
それまで人間の皆様は、一体何をしてらっしゃったのでしょう。
まあ、何もないとこからのスタートだ、大目に見ようぜ。
しかし、あれだな。この国に麻雀が普及し始めて、まだ100年も経ってないんだな。(2012年現在)

そうですね。麻雀牌の初上陸からは、ようやく100年経っています。

さて、この時代、まず麻雀にとびついたのは文人。そして上流階級の方々でした。

新宿区牛込神楽坂にありましたカフェー「プランタン」。
ここは店主松山省三が画家、妻の松井潤子も女優ということで、
多くの画家、俳優、文人らが出入りしておりました。
この店に洋行帰りの市川猿之助と平岡権八郎が、上海で買った麻雀牌を持ち込みます。

後に牌聖と謳われる
林茂光(りん・もこう/本名・鈴木郭郎)
らも加わり、この場所で麻雀を楽しみます。

この時代を後に「プランタン時代」と称します。
このとき指導を受けたメンバーたちが後に日本麻雀界の指導者となっていきます。
ふーん。今で言う「芸能人」たちが、まずは麻雀を楽しんでいたようね。
後の日本麻雀界の指導者は、ここで育ったのね・・・。
どんなルールで楽しんでいたのかしら?

それについては、文献に、以下のような記述がありました。

プランタン時代の初期は詳細な麻雀ルールを誰も知らなかった。
日本郵船がキャビンに備え付けた十頁たらずの英文のパンフレットを
唯一の手がかりとして遊んでいたので、
下家の捨て牌を上家がチーするとか、ポンよりチーが優先するとか、
二人あたりの優先順位もデタラメであった。

これを正して正規の麻雀ルールを教えたのが大陸で麻雀を覚え
本場仕込みの腕を持っていた林茂光である。
林がプランタンに出入りするようになると、はるばる鎌倉から
菊池寛、久米正雄、田中純などの有名作家がしばしば訪れるようになった。

林茂光が
「親は最後にこういうぐあいに、
チョンチョンと、一対とばして取ってくるのです」
と説明して以来、チョンチョンは日本語として定着した。
本来は跳板(チャオパン)というのが中国での名称である。

<天野大三著「日本麻雀史」より抜粋・要約>

最初は、デタラメに楽しんでおられた、しかし、林さんが正規のルールで統一した、と・・・。
日本で最初のルールブックは、林さんだったのですね。
しかもこの林さん、人間の文学界で名だたる功績を残した人たちを引き寄せたんですか。
牌聖と呼ばれるのも、うなづけます。
配牌の「チョンチョン」も、林さんの言葉だったとは・・・。恐るべし、林さん。
あたしは、そのパンフレットに興味があるよ。
船に備え付けるとか、粋だよな!

麻雀は、アメリカへも伝わっていきました。
そのルートは、上海から太平洋を渡る航路でした。
当時、長い船旅の合間の楽しみのひとつとして麻雀が遊ばれており、
欧米人の多い船上では役名など、用語はすべて英語が使われておりました。
そのために日本郵船(株)でも
英文で解説したパンフレットなどを用意し、乗船客に提供しておりました。
長い船旅の間に麻雀をどうぞ、ってか!やっぱ粋だわ。
そのパンフレット、勝手に持ち出していいものだったのかしらね。
そうだとしたら、私も是非欲しいわ・・・。

大正13年(1924年)には、いろいろなことがありました。

空閑緑(本名・空閑知鵞治/日本麻雀連盟の創設者)
東京四谷に「東京麻雀会」を作り、無報酬で華族の家に出向いて
家庭麻雀の出張教授を行うなどの普及活動に尽力。

北野利助
「麻雀の遊び方」刊行。

林茂光
麻雀牌輸入の宣伝用に「支那骨牌・麻雀」を刊行。
これはその後の麻雀ブームにも乗り10万部を越すベストセラーとなる。


この時代、麻雀に熱心な外国の方も
日本での麻雀の普及に貢献なさっております。

シー・デホーヤ女史
「婦人画報」に「麻雀牌の遊び方」を載せ、
女史の自宅で日本の女性たちに麻雀を指導する姿の写真が
大正13年(1924年)1月号のグラビアとなっております。

このようなさまざまな活動を通じて
徐々に麻雀が日本の方々に知られるようになっていきました。
あっ。
空閑緑さんの活動は、今、るなちゃんが行っている普及活動に良く似ています。
るなちゃんは、歴史に倣って、活動しているのでしょうか。

空閑緑が旗揚げした上記「東京麻雀会」は
昭和3年(1928年)には、銀座に移転して「東京麻雀倶楽部」となり
昭和4年(1929年)には「日本麻雀聯盟」と改称。
初代総裁には文芸春秋社社長の菊池寛を迎え、活動が本格化します。

4〜5年間で、これだけ組織を大きくしたのですから、すごいですよね。
るなちゃんだって、100年後、「るなちゃん、健康麻雀の普及に尽力」等と語り継がれるかもね。
頑張って欲しいわ。

黎明期には、このように、大勢の人が、遊び方を伝えていった、と。なるほど。

この頃、巷では雀荘が相次いで開業しています。
日本初の麻雀荘「南々倶楽部」が平山三郎によって東京・芝に開かれたのが
大正13年(1924年)といわれております。
その後、昭和4年(1929年)には1521軒、昭和5年(1930年)には1712軒と
記録の上でもその数が急激に増えているのがわかります。

このような時期に、国民新聞社の後援によって
「日本麻雀聯盟主催『第一回全国麻雀選手権大会』」が
昭和6年(1931年)3月21日に開催されました。

参加者が500名以上のこの大会、1日だけではとても終わらず、
10日後の3月31日と2度に分けて行うほどの盛況ぶりでした。
出ましたね、南々倶楽部。
あの頃は、半荘のゲーム代が30銭。
トップの方には、優勝商品として、7銭の「ゴールデンバット」という煙草が贈呈されていました。
1卓120銭を集めて、優勝商品は7銭なのですから、お店は大もうけです。
大会には500名以上が参加か。すげーな。
活動の甲斐あって、麻雀人口も徐々に増えつつあったってことだよな。

こうしたいわゆる
「第1次麻雀ブーム」によって、多くの麻雀団体が結成されましたが
当時、ルールは各団体バラバラでした。

そこでまず、昭和3年(1928年)3月25日
「東京麻雀会」で日本初のルール協定委員会が開かれます。

そしてこれを受けて翌年の昭和4年(1929年)4月11日、丸の内の大阪ピル内の
グリル「レインボウ」で各団体の代表が集結しルール統一会議が開かれ、
数日間にわたっての白熱した議論がなされます。
そして「符底(副底)20符、門前清加符10符」など、
今日でも踏襲されている基本ルールが決定いたしました。

この会議は後に「レインボウ会議」と称され、
その後の日本の麻雀に大きな影響を与えることになります。

レインボウっていうのは、レストランの名前なの?
レストランに数日間も詰めるとは、大したものね。
ここでごちそうを食べながら決めたことが、100年後も守られるとは、
会議参加者も思ってなかったんじゃないかしら。

その後、「日本麻雀聯盟」は昭和7年(1932年)に、
「実業麻雀聯盟」(代表・杉浦末郎)
「本郷麻雀会」(代表・高橋緑鳳)
「昭和麻雀会」(代表・前田清)
「日本雀院」(代表・榛原茂樹)
などの各地の麻雀団体と合併し、「大日本麻雀聯盟」となります。
久米正雄が総裁へ任命されました。
やるじゃん、空閑緑!
こいつが立ち上げた東京麻雀会は、たった8年で、
東京麻雀会⇒東京麻雀倶楽部⇒日本麻雀聯盟⇒大日本麻雀聯盟へと成長したんだな。

しかし、人が集まると、いさかいも多分に起こるものでして…。

空閑緑は中央委員長及び機関誌「麻雀春秋」の編集長として在籍していましたが、
やがて運営上の問題から脱退。
新たに西銀座で「日本麻雀聯盟」を設立いたします。

空閑はその後麻雀の普及に伴い、トップ賞のあり方などで警察より賭博性が指摘されると、
「東京麻雀粛正同盟」を設立。
麻雀の健全な発展に尽力します。
運営上の問題・・・一体何があったのかしら。
それでもまた、別のところで「日本麻雀聯盟」から始めようとするのがタフよね。
っていうか、名前も同じだし・・・。
わあ、「東京麻雀粛正同盟」・・・。
麻雀の健全な発展を目指す団体を立ち上げたのですね。
私共の目指すものと一緒です。
ああ…空閑緑、こいつに協力すべきだったんだ、あたしらは…。
「人間は嫌い」とか言って、健康麻雀の世界に閉じこもっていたから、
こういうスゲー奴を発見できなかったんだ…。あたしら、超反省しなきゃだぜ。

空閑緑は、きっと、皆さんと同じように、ギャンブルではない麻雀を広めたかったのです。
しかし、麻雀はもともと本家の中国でも博打として遊ばれたものであり、
日本に輸入された後も人々は金品を賭け、雀荘もトップ賞として高額な景品を提供します…。

このため昭和8年(1933年)頃から警察による取り締まりは厳しさを増し
さらに戦争の影響による軍部の圧力などもあり、麻雀荘は激減いたします。

そして昭和15年(1940年)頃には
あれほど林立していた雀荘は姿を消します…。
そうだったの?一度は、国家権力が、賭け麻雀を規制してくれていたのね。
健康麻雀の普及を目指す、東京麻雀粛正同盟にとっては、大チャンスだったでしょうに。
この頃、この国は、大きな戦争に加担しています。
麻雀どころではなかったのでしょう。
だけど、今も賭け麻雀がなくなっていないのは、
その戦争が終わった後、また賭け麻雀が流行したってことだよな。
空閑緑の努力は、ムダだったのか・・・?おい、早く、続き続き。


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